筋トレの脱埋め込み

最近、ジムなぞに通っている。私の主な目的は肩こりの解消と更衣室に併設されている風呂に入ることなのだが、当然筋肉を鍛えるために通っている人も少なくない。

筋肉を鍛えるためにわざわざ大掛かりなマシンなどを使わなければいけないところに、私は一抹の悲哀を感じずにはいられない。わざわざ意図的に鍛えようとしなくても筋肉を鍛えることはできるからだ。

私はかつてエチオピアの農村に行ったことがある。当然だが、その村には筋トレマシンの類は一切ない。

だが村の人たち、とくに男性は農作業によって自然と鍛えられるようで、彼らの背筋や上腕部の筋肉は、ランニングシャツの上からわかるほど盛り上がっていた。農作業で使う分だけ過不足なく鍛えられた彼らの筋肉には実に無駄がなく、とても美しかった。

このような「巧まずして鍛えられた筋肉」、「意図せずして行われた筋トレ」は、アフリカに限らず世界中の農村で観察できるはずだ。

したがって、農業従事者が人口の大半を占めていた時代は、筋トレなどという概念そのものが存在しなかったに違いない。

しかし産業構造が高度化すると、筋力が要求される仕事についている人はもはや少数派となる。その一方で健康志向は高まる。男性の場合、マスキュリニティ信奉も根強い。

そこで人々は、仕事とは別に筋トレを行うようになる。産業構造の高度化に伴い、筋トレは労働に埋め込まれた動作から、意図的に行われる行為へと変質したのだ。

この事態を筋トレの脱埋め込みと呼びたい。